東大生のベストセラー『知の技法』 編者 小林康夫 知性とSMバーとAKB

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情報はインターネットのクリック一つで手に入る。でも昨日役に立った知識が、明日には無用のものとなる。そんな過剰で過酷な時代を生き抜くための教養とは何か―「知の巨人」が解き明かす。

「経験値」は通じない

 日本はいま、危機の時代に直面しています。

 世界中がグローバル資本主義に席巻される中で、政治、経済など様々な分野で、これまでわれわれ日本人が有効だと考えてきたやり方が通用しなくなってきているからです。

 それなのに、多くの人がこの危機に正面から向き合おうとしていない。そこにいま、日本が抱える最大の問題があるような気がします。

 たとえば政治の現場に目を向けると、やれ「うちわ」だ、やれ「SMバー」だと、人の揚げ足を取って引きずりおろすことばかりが行われています。まるで「ムラ」の中の近所同士のいがみあいを見せられているようで、あまりにレベルが低いと感じます。

 もちろん一人一人の政治家の姿勢を糾すというのは大事なことですが、国会の場でこのようなことが一番の問題として議論されるのが果たして正しい政治のあり方なのか。もっと緊急の課題があるはずなのに、その本当に考えるべき問題が見て見ぬふりされているのではないか。

 私がこうした疑問を感じるのは、政治に対してだけではありません。日本企業においても、また私が身を置く大学という場でも、似たようなことがパラレル(並行的)に起きている気がしてならないのです。

 〈小林康夫氏。1950年生まれ、東京大学大学院教授(表象文化論)。'94年に東京大学教養学部の副読本として発刊されながら、異例のベストセラーとなった『知の技法』の編者として知られる。東大を拠点に人文科学の最前線を走り続けてきた同氏は、今年度で東大を退官する。そんな「知の巨人」がいま伝え残したいこととは―。〉

 最近、ソニーの業績悪化のニュースが騒がれていました。変化のスピードが速い時代において、その新しさについていけない組織は、大きいところから潰れていくもの。少し前のJAL(日本航空)然り、です。

 これまでの経験値では対応できない時代。世界中の誰もがどうすればうまくやっていけるのか、その解を持っていません。本来であれば、若い人、具体的には40歳以下の人たちにどんどん権限を委譲していくべきなのでしょう。

 危機を突破する力というのは、個人からしか出てきません。誰も考えたことのないような発想というのは、個人の頭の中にしか宿らないから、それができる個人に賭けるしかない。しかも、経験値に縛られない若い人に。

 それなのに、多くの日本企業はいまだに経験が長い人は若い人に比べて絶対的に「企業内教養」があるという考え方に基づき、年寄りから順番に部長、そして取締役と昇進しています。年寄りが偉い―それはまさに「ムラ」の原則そのものです。

ランキング化された世界

 もちろん若者に委ねるというのはリスクを伴います。STAP細胞騒動で、小保方晴子さんが話題になりましたが、若い才能に任せるという点では素晴らしいことでした。一方で周囲が若者の危なっかしさをフォローしたり、守ったりする体制ができていなかったことであのような結果になってしまったように思います。若者に場を与え、その若者を周囲が徹底して守ってあげる。そんな勇気と気配りが必要とされている時代なのでしょう。

 私は'86年から東京大学に所属していますが、正直申し上げて、この東大もいまだ「ムラ」意識から抜け出せていません。

 東大はいまグローバル化を進めようと、世界の大学と協定を結んでいます。しかし、協定を取り交わせばそれだけで「国際化」しているかといえば、もちろん違う。大切なのは、文部科学省に出す書類に形式だけ協定先の大学を並べられることではなく、どの先生が、海外の大学の先生とどれくらい会って、どのような話し合いをしているのかということに尽きます。その点、東大はいま世界が要求している水準に圧倒的に足りていません。私は「東大の理事会くらいもちろん英語でやっていますよね」、「理事の2〜3人は当然、外国人ですよね」などと意地悪を言っているのですがね(笑)。

 外へ出て行こうとする学生は増えているように感じます。しかし、学生たちも世界とコミュニケーションするための国際化ではなく、日本という空間の中で生き延びるために「国際化」しようとしている気がする。留学しておいたほうが就職に有利だから、といった「計算」です。履歴書に書くための国際化というのは日本社会という「ムラ」の中でいかに生き延びるかという発想であり、本来的には外を向いていない。そういうごまかしがこの国にはすごくありますよね。

 冒険しにくい世の中ではあります。憧れも夢も持ちにくい世の中です。私が若い頃であれば、アマゾンの未開の地に行けばなにかワクワクするものがあると思えて、それ自体が冒険になりえた。しかし、いまはインターネットで全部見られちゃうよ、となる。グローバル資本主義が世界中に行き渡っているので、アマゾンの奥地に行ってもコカ・コーラが、いや、コンピュータが置いてあるんでしょ、とも。すべてが登録され、ランキング化され、「世界遺産化」されているわけです。

 それが人々のエネルギーを奪っているように感じます。代わりに、バーチャルな空間の中で行われるゲームにどれくらい勝つか、どれだけ点数を稼ぐかを競い合う。そんな世の中になってきたように感じませんか。

『知の技法』を出した当時はインターネットという言葉も浸透していなかったのに、あれから20年ほどで、インターネットはすさまじいスピードで世界に浸透していきました。そして多くの人たちが、一日24時間のうち寝ている間を除いた大半の時間を、そのバーチャルな世界に接続して生きるようになっています。

 しかし、果たしてそれで人間は幸せになったのか、私は私らしく生きられているのか。インターネットという巨大な脳に比べてちっぽけな、人間のこの情けない脳を使って、そうした問いの答えを探すことこそが、現代の知性、教養といえるのではないでしょうか。

ナントカミクスの裏で

 インターネットとグローバル資本主義が世界に浸透していく大きな流れを変えることはできません。そこで政治の役割を考えるならば、自分は生きていてもいいのだという感覚を最大限の人に与えるということ。それ以外に、本当の意味での政治の役割などありません。少し前に、「24時間以内に死んでくれ」と父親から言われた息子が自殺した痛ましい事件がありましたが、そうした言い方は絶対に政治にして欲しくない。

 日本銀行が金融緩和を行って、株価が7年ぶりの高値を回復したと騒がれています。株を持っている人にとっては嬉しいことなのでしょうけど、私にはどこか現実感のないバーチャルな操作が行われているように映りました。実体経済においてなにかモノが一つでも売れたわけではないのに、株価が何百円も上がってしまう。これはおかしなことではないのか、と。

 そもそも日本という国が成熟期を過ぎて停滞してきた中で、それを糊塗しようとしてナントカミクスのようなものが出てきているのでしょう。今回の金融緩和にしても、瀕死の病人の血が薄くなったからと、人工血液をぶち込んで、血液の濃度を上げるようなもの。それは瞬間的にはうまくいっているように見えるけれど、実はその裏で根源的な矛盾がどんどん拡大しているように思うのです。

 政府に頼れないのであれば、われわれは自分で自分の存在の肯定感を見つけていくしかありません。もちろんヘイトスピーチのように、何かを否定することで自分を確保するのではなくて、です。敵を作って否定しておけば自分が肯定されたかのような錯覚を覚えるというのは度し難い人間の習性でしかありません。

 バーチャルな空間のゲームに勝つだけでも、つまらない。所詮はこれってゲームでしょ、と気づくのがオチでしょう。

 AKBブームというものは、まさにそんな時代をするどく突いているのでしょう。テレビやネット上から流されるものを押し付けられるのではなく、劇場に見に行くという行為を通じて、現実感のある自分の楽しめる空間を自分で作っていく。その感覚はとても現代的だし、素晴らしいことだと思います。

 もはやスタンダードなどない。すべて自前で新しいものを作っていくしかない。そういう意味で、いま、AKBから学べることもたくさんあると思うのです。

 われわれにとっていま大切なのは、現実のこの空間に生きる重みを感じながら、自分のこの手で楽しみを作っていくことです。誰かが与えてくれる処方箋はなくて、個人個人で違っていていい。もちろん自分ひとりで「俺はこの世界にいていいのだ」などと思えるのはブッダのような巨人にはできるけれど、普通の人にはできない。そこに友人や仲間が必要な理由があるわけです。

 万葉集の歌をたくさん知っているとか、検定試験に合格したとか、そうした上っ面の知識は生きていくのに本当に必要でしょうか。教養は使えなければ意味がなくて、何のために使うのかといえば、生きるためです。だからこそ、自分にとって生きていいと感じるのはどういう時かを手探りして、学んでいく。それが生きるための教養であり、それさえできていれば、ほかのことなんてどうでもいいとさえ思うのです。

2014/11/22号


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